第四回 書評家・細谷正充賞 選評-5
矢野隆『戦百景 長篠の戦い』(講談社文庫)
表画 正子公也
装幀 高柳雅人
第一刷発行 2021年6月15日
定価 760円+税
ISBN 978-4-06-523776-2
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000352916
文庫書き下ろし作品の美点は、単行本に比べて値段が安く、なおかつ部数が多いので、手軽に入手できるところにある。だがそれゆえに、単行本よりも一段低い扱いを受けることが多い。一例を挙げれば、書評に取り上げられないことだ。これが私は、昔から不満であった。
もちろん近年、そのような状況は変わってきた。文庫書き下ろし専門の書評枠が増え、以前より注目されるようになってきたからだ。このような流れを守りたという想いもあり、本賞ではなるべく文庫書き下ろし作品も選ぶようにしている。そして今年、これだと決めたのが、矢野隆の戦国小説『戦百景 長篠の戦い』であった。作家が己の力を遺憾なく発揮した、大いに称揚すべき作品である。
デビュー当初の矢野隆は、時代小説らしからぬハードなバイオレンス・シーンに特色があった。この作風は現在でも続いている。しかし一方で、早い時期から作品の幅を広げていた。そのひとつが戦国小説だ。本書はその最新の成果といっていい。戦国時代の有名な長篠の戦いを、八人の武人(エピローグの徳川家康まで入れれば九人)の視点で描き切ったのである。
読み始めて驚いたのが、長篠の戦いの二年前から物語の幕が上がることだ。第一章で、武田家に仕えていた東三河の国人衆の奥平貞能が、息子の信昌と共に徳川家に寝返る。その経緯が信昌の視点で綴られるのだ。いきなり信昌かと思ったが、そこに作者の確かな史眼がある。そもそも大きな戦は、いきなり起こるものではない。そこに至る流れがあるのだ。これを作者は見事に押さえているのである。
続く第二章は武田勝頼が主人公。信玄亡き後、家臣との関係が上手くいかない勝頼の内面が掘り下げられている。そして第三章では武田家に攻められ籠城戦を繰り広げる長篠城で、城将の奥平信昌からある命を受けた足軽の鳥居強右衛門の、壮烈な選択が活写される。戦国ファンにはお馴染みのエピソードだが、強右衛門のキャラクターに魅力があり、新鮮な気持ちで読めた。以後も、武田家家臣や徳川家の家臣、そして織田信長など、多彩な視点を使いこなし、織田徳川連合と武田家が設楽原で激突する戦の流れが、巧みに表現されているのである。
さらに信長が、長篠の戦いのクライマックスである、設楽原の決戦を、籠城戦に見立てた点も見逃せない。この解釈には説得力があった。よく知る史実を、新たな角度から楽しむ。歴史小説を読む喜びが、本書には溢れているのだ。