「書架之細充(しょかのほそみつ)」書評家細谷正充の書棚 第四回

2019年4月21日 - 刊行物

「書架之細充(しょかのほそみつ)」第四回
このコーナーは、書評家細谷正充氏の書棚として、細谷正充氏が気になる本を紹介していきます。よろしくお願いします。

・駒音高く 佐川光春 四六判 実業之日本社 1,700円+税
作者が佐川光晴という時点で、面白いことは分かっていた。『駒音高く』(実業之日本社)のことである。将棋にかかわる人々を描いた七篇を収録した短篇集だ。どのように将棋の世界を描くのかと思ったら、いきなり清掃のオバチャンが主人公の話なので驚いた。
夫に先立たれ、子供もなく、千駄ヶ谷の将棋会館の清掃をしながら、ひとり暮らしをしている奥山チカ。エリートの兄からは見下されているが、今の生活に不満はない。ある日、大阪旅行で関西将棋会館を覗いた彼女は、成り行きで将棋を指す。そして将棋を人生の、新たな楽しみにするのだった。
捨てられる弁当のエピソードを通じて、将棋の世界の厳しさも表現されているが、この物語に大きな起伏はない。ただ、すでに老境にある女性の、ささやかで穏やかな人生が描かれているだけなのだ。それなのに読んでいると、気持ちがいい。きっと人間を見つめる作者の眼差しが、優しさに満ちているからだろう。
実際、本書は気持ちのいい話が多い。しかし一方では、負けが続き将棋の道を断念しようとする少年を取り上げた「それでも、将棋が好きだ」のような、厳しい作品もある。これが本書の深みを与えているのだ。
そしてラストの「最後の一手」は、対局中にくも膜下出血で倒れたベテラン棋士の再起戦の顛末が綴られている。これまた実にいい話なのだが、ベテラン棋士の相手が大辻弓彦と知って、嬉しくなった。というのも彼は、一話に登場しているのだ。将棋に負けて喉を通らなくなった弁当を、泣きながらチカに渡した少年の弓彦。その後も彼の名前は、話のあちこちに登場する。そして最後に、関西のホープとして現れたのだ。
弓彦を主人公にした物語はない。だが、すべての話を読むと、本書が彼の成長物語でもあることが分かるのだ。こうしたテクニカルな手を指してくるから、ベテラン作家は油断がならぬ。次々と繰り出された妙手に、まいったといってしまうのである。

・新宿花園浦交番 坂下巡査 香納諒一 四六判 祥伝社 1,600円+税
今回の書評は、人によってはネタバレと受け取るかもしれない。なので、それが気になる人は注意してもらいたい。という予防線を張って、香納諒一の『新宿花園浦交番 坂下巡査』(祥伝社)である。新宿の花園公園裏交番に勤務する新米巡査・坂下浩介の奮闘を描いた警察小説だ。
本書は冬・春・夏・秋の四篇で構成されている。ただし秋はエピローグであり、実質三篇といっていいだろう。冬の事件は、ホステスの盗難事件が殺人へと発展する。春の事件は、坂下が面倒を見た子供を発端に、またもや殺人事件にかかわることになる。秋の事件は、新宿署の名物刑事に呼び出された坂下が、複雑な事件にぶつかっていく。どれも交番勤務の警官を、大きな事件と関係させる段取り〝〟5に工夫があり、面白く読めた。ミステリーの謎も魅力的である。
それとは別に気になったのが、作者の小説技法だ。作者はあえて、多くのことを書かないでいる。たとえば人物の過去。坂下と因縁のあるやくざの西沖達哉。ビッグ・ママと呼ばれる新宿署の深町しのぶ警部補。なぜか花園浦交番に居座り続ける重森周作班長。彼らの過去に何があったのか。普通ならば事件に絡めて解明されるが、作者はそうしなかった。これにより人の人生は、簡単に理解できるものではないという、メッセージが伝わってくるのである。
さらにいえば坂下は優秀な警官だが、他の人がそれを褒めるなど、キャラクターを際立たせる場面がない。ただ表面上の言動から、勝手に読み取るのみである。このように“書かない〟ことによって表現することを、作者は意識的に行っている。深く留意したいポイントなのだ。
また、新宿に愛着を持っている作者らしく、新宿の風景が克明に描かれている。ここも本書の読みどころだ。