書架之細充 2020 第十回

2020年9月17日 - 書架之細充

文人墨客編集部より、文芸評論家であり書評家である細谷正充氏が気になる本を紹介する「書架之細充」をお送りします。

 今回ご紹介するのは、新潮社より
「商う狼 江戸商人 杉本茂十郎」永井紗耶子:著(定価 1700円+税)
表画 宇野信哉 装幀 新潮社装幀室

 二〇一八年に刊行された『大奥づとめ』を読んだとき、永井紗耶子は、この作品で化けたと思った。大奥で働く女性たちを主人公にした連作短篇は、それほど優れた物語だったのだ。しかしそれは、早急な判断だったようである。なぜなら本書『商う狼 江戸商人 杉本茂十郎』で、さらなる飛躍を見せてくれたからだ。
 物語の主人公は、タイトルにある杉本茂十郎。甲斐の農家から江戸の定飛脚問屋に奉公し、九代目の主になった男である。江戸の物流に大きな影響を持つ十組問屋との紛争を解決して名を上げた彼は、周囲から一目置かれる商人になった。さらに、勘定御用達として知られる堤弥三郎と親しくなる。
 だが好事魔多し。永代橋の崩落事故により、妻と跡取り息子を失ってしまう。この悲しみをバネに、三橋会所頭取となり、橋の運営に必要な費用を集める。また、問題を抱える桧垣廻船を立て直し、流通を一新。いつしか莫大な権力を握るようになるのだった。
 本書は、そんな茂十郎の人生を、弥三郎の回想によって綴っていく。既得権益にまみれた商人の世界に、風穴を開ける茂十郎の行動が痛快だ。その原動力になっている悲劇を思えば、彼に肩入れしたくなる。だがそれが茂十郎を、モンスター化したことも間違いない。作者は主人公に寄り添いながらも、常にその商人としての在り方を、冷静に見つめている。だからこそ茂十郎の肖像が、深く彫り込まれているのである。
 さらに商人の世界だけでなく、幕府の無為無策に立ち向かった茂十郎は、それゆえに権力に蹂躙される。ここで描かれる経済や政治の諸問題は、現代の日本と通じ合う。江戸時代を舞台にしているが、令和の息吹が感じられる秀作なのだ。
ISBN 978-4-10-352022-1